参考文献:『恵信尼』(今井雅晴 著)      『親鸞 越後の風景』(内藤章 著)
越後の親鸞聖人 浄土真宗の宗祖「親鸞聖人」は承元元(1207)年、法然上人が率いる教団に対する専修念仏停止の法難を受けて、法然上人の 弟子の一人として越後国府へ御流罪となりました。 この当時の朝廷の規則「獄令」第11条に「皆妻妾を棄放して配所に至ることを得じ」とされていたため、聖人は奥様の恵信尼様 を伴って越後に来られました。建保2(1214)年にご家族で関東の地に移住されるまでの7年間、聖人ご夫妻は越後で暮らさ れました。 実はこの時期、聖人の伯父である日野宗業が越後権介に任命されていました。また恵信尼様の実家である三善家は、恵信尼様の父、 三善為教まで3代にわたって越後介をつとめていましたので、越後には三善家の所領があったであろうと考えられています。ですから、聖人夫妻の普段の生活はそれほど不便ではなかったと思われます。 しかし聖人が、のんびりと越後での生活を楽しんでおられたとは思えません。 それまでの聖人は、吉水草庵において師である法然上人や多くの先輩とともに、学びの生活をしておられました。信心について疑問 が生じれば指導してもらうことができましたし、時には厳しい対立の場面もあったことでしょう。そこには独りよがりにならない 学びの生活があったのです。ところが今度は、越後というそれまでとは異なる環境のもと、一人で学ばなければならいことに なったのです。それはとても苦しいことであっただろうと想像できます。 しかし一方越後は、京都の消費生活とは異なり、人々が田畑や山林そして海や川で生産生活を行う世界でした。聖人はその活動に 従事する人たちを目の前にし、またその中に入り、彼らの喜びと悲しみを身をもって知ることができました。また、越後と京都での 環境と地理的に異なることでは、海の存在をあげることができます。日本海の荒波と、晴れた日には海の向こうに沈む太陽。その先に極楽浄土があるのかと、真っ赤な太陽の沈む有り様を見つめる日も多かったものと思われます。このような越後での生活のなか、聖人は孤独な学びに耐えることで、いっそう念仏信心の境地を深められ、やがて信心の念仏を世の中に広めていこうと決心をされます。越後は、聖人のその後の人生にそして浄土真宗の教えに、大きな影響を及ぼした土地であったと言ってよいのではないでしょうか。 聖人上陸の地と伝わる居多が浜に、『念仏発祥之地』と刻まれた石碑が建っています。上越市出身の真宗学者・金子大榮師が書いた ものですが、この文字を書いた際に金子師は「この地は念仏発祥の地で間違いない。それはこの地で初めて、念仏は民衆の生活の場 での救いの念仏になったからです。」と発言しています。 聖人が流罪生活を送られて以来800年の長い年月を経て、越後の民衆の生活の中に、聖人が伝えた救いの念仏が深く根付いて現在 に至っています。 越後の各地に、聖人に関わる旧跡が多数残され、とおく現代にまで伝わっていることには、このような背景があるのではないかと、 思えてなりません。